集団の中で説教親父は必要無い

説教親父はなぜか評判がいい。「嫌われ役になってくれている」とか、「集団を良くしようとわざと言ってくれている」とか、「ああいう人も必要だよね」とか高評価が多い。でも本当にそうなのか?実はいらないんじゃないのか?っていう話。

僕の周りにも説教親父はいる。説教親父は怒らなくてもいいところで怒る。普通の人なら怒らないようなところで怒る。確かにみんなは怒られるのが嫌だからきちんとする。その人がいる間はきちっとしてその人がいなくなると集団がダラっとする。よく言えばその人がいると空気が締まるんだ。これが説教親父に高評価をもたらされる理由なのだろう。

でも本当にそうなのか?状況は好転しているのか???

説教親父がいるときだけしっかりするというのは別に状況としては好転していない。実は悪くなっている。僕の周りを観察すると説教親父がいなくなると普段のみんなよりも気が抜けている様に見える。なぜなら説教親父がいる間に気を張っていたせいで、そこで普段以上の力を使ってしまうからだ。その反動で説教親父がいなくなると普段以上に気が抜けるという結果となる。ということは、実は好転しているように見えて全体をきちんと見ると±0にしかなって無いってことだ。

そして、普段の気合の入り方は±0という結果をもたらすくせに、説教親父は悪影響をしっかりと残していく。鬱病、陰口、雰囲気の悪さ、集団からの離脱などなど悪影響ははかりしない。つまりよくよく考えると説教親父の総合評価は−の面が大きいってことだ。

大体文句を言うくらいなら教えてやればいい。文句を言う時間がもったいない。文句を言って事態が好転するような状況であるならば問題は無いのかもしれないが、僕はあまり文句を言うことによって事態が好転する状況に立ったことは無い。というか、逆に文句を言ったせいでうまくいかなくなったという状況のほうがよくある。「集団のためだ」とか「文句を言っているのはお前のためだ」とか言うけど、そんなのは説教親父の自己満足でしかない。そして、その自己満足を支えているのは「ああいう人も必要だよね」って軽く言っている人たちに他ならない。

もうちょっと状況を見てから物を言えよ。



説教親父が本当に集団のためになっているのか?
集団のためになっていると思い込んでいるだけじゃないのか??
そう思い込まないとどうしようもならない状況に入っているだけなんじゃないのか???



説教親父は実は必要ない。本当に必要なのは物事を冷静に考えてきちんと判断出来る人間だ。なにか失敗をしたときに文句ばかりを言って「お前のために言ってやっているんだ」なんてたわごとを言っている説教親父では断じて無い。